ちょっと長ったらしくなるけれども、最近感じたことを書いておきたい。
塾でも、それ以外でも、お付き合いさせてもらうお施主さんの年代は、ほとんど団塊世代か、団塊ジュニア世代が多い。 私自身は、団塊とそのジュニアのちょうどど真ん中にいるので、両方の空気が分かるような分からないような・・・ 微妙な位置にいる。
塾生の構成自体も、そんな感じではないだろうか。 団塊の世代に問題意識が高いのは、よく分かる。 問題意識というか、「あたりまえ」を疑ってみる姿勢があるように思う。 だから、メーカー品の住宅商品を疑って、塾に通ったり、建築家に相談したりして、本物の家づくりに近づこうと努力されている。
一方、団塊ジュニアの世代は、「あたりまえ」を疑うというよりは、「あたりまえ」が存在しない、と言った方がいいかもしれない。 これは、実は相当つらいことだと思う。
もちろん、ご本人たちは、最初からそうなのだから、いちいち辛いなんて感じていないだろうけれども、従うにせよ疑うにせよ、最初に寄って立つ価値観がないというのは、実はすごく大変なことだ。
たとえば「偉い人」に会ったとき、感覚的に「偉い」と感じるかどうか。 団塊世代は「偉い」と感じてしまうから、それを疑う。 しかし、ジュニアの世代は、さほど「偉い」という感じをもたないのではないだろうか。
ジュニアの世代の人たちには、バカにするなと反論されそうだが、ここで言いたいのは、分別がないという意味ではない。 昔の人が、身体感覚で囚われていた「あたりまえ」の考え方から、自由になっているという意味である。 頭では「偉い人だ」ということは、社会規範から判断できるけれども、身体感覚で反応することがない。
偉い人なんて言う話は、それで良いけれども、さて自分の家を作ろうとすると、これはなかなか困ったことになる。 家というのは、「身体感覚での納得」がなかったら、作ることはできない。
ふた世代前の人たちが、「家というものはこういうものだ」と決めつけていた、様々な考え方がある。 節の無い檜が最高級。 (普段使わない)座敷を一番いい場所に。 などなど。 今でもそれを金科玉条にして、入母屋御殿を建てている人たちもたくさんおられる。
ひと世代前の人たちは、その価値観を、ひっくり返すことから始まった。 家族の部屋をいい場所に。 主婦が使いやすい家。 合理的なデザイン。
こうして、昔の価値観はひっくり返ったのだけれど、しかし新しい価値観として確立はしなかった。 次の世代が挑んでいくべきものとしての、価値観にまではならなかった。 気取って言えば、日本のモダニズムはファッションで終わってしまった。
だから、それ以降の建築デザインは、ファッションの焼き直しを重ねているにすぎないように、私には見える。 この影響を、まともに被ってしまったのが、団塊ジュニアの世代なのだろう。
本屋の書棚を見ただけでも、気が遠くなりそうなくらいの「住宅本」が並び、でも実はほとんどが、分厚い広告にすぎないということも何となく分かってしまっている。
自分たちのライフスタイルといっても、先行きどうなるか分からないこの世の中で、高度成長時代のような、ノンキな楽観主義はノスタルジーにもならない。
そんな中で家を考えるというのは、上の世代の人たちが考えるほど楽じゃないのである。 とにかく、何かの基準を見いださなければ、前に進まない以上、果敢に本を続け、一つ一つの事象を、自分の頭で確認していく。
こうして奮闘している若き家づくりの闘士たちを、一元的な価値観で斬ってしまっては、ジェネレーションギャップは埋まらない。 この揉み合いの中から、新しい住まいの価値観、ありかた、大げさに言えば伝統を、ちょこっとでもつかみだしていくのが、私たち中間世代の役回りなのかもしれない。
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